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日清修好条規と琉球帰属問題

明治政府は朝鮮との国交問題解決のためにも、まず朝鮮の宗主国である清と対等の国交条約を結び、その冊封関係を利用して朝鮮と交渉するという方針をたて、清の直隷総督李鴻章との間で1871年9月日清修好条規及び通商章程を締結した。これは使節の交換と領事駐在および限定的な領事裁判権、開港と通商および協定関税率を相互に認めるという平等条約であった。その第二条は「両国好みを通ぜし上は---若し他国より不公及び軽藐する事有る時、其の知らせを為さば、何れも互いに相助け」と、両国が当時おかれていた西欧列強による脅威を前提に相互扶助を誓約するものであった。

他方両国には琉球王国(琉球国)の日清両属という領土問題での懸案もあった。琉球王国は明(1644年滅亡)との朝貢貿易をはじめ東アジア諸国との中継貿易により繁栄していたが、1609年薩摩藩の島津氏による征服により奄美諸島を薩摩藩の領土として併合されたうえ琉球王国は事実上薩摩藩の属国となった。しかし日本の江戸幕府は自身が明や清に朝貢せずに対等の関係を保ったまま、中国との朝貢貿易の利益を確保するため、琉球を薩摩から独立した藩王国にせず、薩摩藩に外交・貿易を支配された同藩の保護国でありながら、朝貢貿易を通じて形式的には中国への朝貢関係を続ける形式両属体制のまま幕末まで放置していたため、清国側は琉球王国は自国の朝貢国であると主張していたからである。 1871年7月の廃藩置県により琉球は鹿児島県に一応編入され、翌1872年9月琉球藩を設置し国王を他の藩主同様華族に列する詔書が授けられたが、この後も琉球の帰属問題をめぐって日清両国の紛争は続き、さきに1871年同地域住民の船が難破し台湾南部へ漂着した際、中国人による琉球島民殺害事件が発生していたが明治政府は台湾出兵までそれを解決できないまま数年が経過した。

征韓論と明治六年政変
すでに18世紀末、仙台藩の林子平は海国兵談で海防論を説き、幕末には経済学者佐藤信淵は土地国有化と海外進出を行う絶対主義国家を論じ、吉田松陰は幽囚録で蝦夷地開拓とともにカムチャッカ半島、朝鮮、台湾、満州等への侵略統治論を展開していた。それらの主張は尊王攘夷運動と明治初期の薩長藩閥政府にも少なからぬ影響を与え、朝鮮との国交交渉が進展しない明治政府内で武力による開国を迫るいわゆる征韓論が台頭した。

1873年6月の閣議(いわゆる留守政府)において参議板垣退助が交渉の行きづまりを打開するため陸軍一大隊の朝鮮への派遣を主張、西郷隆盛は使節の派遣と自らその職への任命を主張、その後岩倉具視が帰国し内治優先の立場から使節派遣に反対の上奏をし、明治天皇の裁可により派遣延期となり参議西郷、板垣らが辞職する事態となった。(詳しくは征韓論、明治六年政変、西郷隆盛を参照)また大久保達はこれ以降、政治の実権を握る事になったが、いわゆる「征韓論」に対しては大久保らも、交渉決裂に際して朝鮮半島での武力行使の方針自体には反対ではなかった。 この征韓論には1871年廃藩置県によって武士としての職を失った士族の不満が背景にあり、以後1873年徴兵令公布、1876年廃刀令、秩禄処分に至る過程で士族反乱が相次ぎ明治政府はこうした不満を海外に向ける必要もあった。

『ウィキペディア(Wikipedia)』引用

日清戦争、 壬午事変と甲申政変についても詳しく知りたいと思います。

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2009年12月 4日 13:44に投稿されたエントリーのページです。

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